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ああ、これですこれ、ずっと探してたんですよ。 やっぱり消えてたんですね、悲しい。 こうなるともう一度見るのは絶望的ですね。。。 -- (名無しさん) 2023-12-05 07 34 22 ふわふわした紫のキャラ設定が印象的だった。 デパートで迷子になったら呼び出し食らいますからねって主人公が紫に注意するシーンとか、あったな。 デパート屋上の遊具の思い出を語る主人公に、紫が諭しを与えるシーンが印象的だった。 少なくとも3周はしたし、消えると分かっていたら全部保存していただろう、それぐらいよくできた作品だった。 -- (名無しさん) 2023-12-05 07 58 52 デパート屋上の遊具の思い出を語る主人公に、紫が諭しを与えるシーンが印象的だった。 この場所は消える(もしくは消えた)かもしれないけれど、あなたが思っている限り、この場所は無くならない、それはとても重要なことなのよ。 そんな内容だったと思う。 消えてしまいそうなぐらい希薄な生き方をしている女性が、唐突にこういう真面目な示唆を与える、それは、 どんなに長い年月を生きているかわからない存在が、確かにこの現代を人間と共有しているということを象徴していたのかもしれない。 不思議なことに、この動画自体が、思い出にしかないものになってしまった今、ようやく始まった物語なのだろうか? -- (名無しさん) 2024-03-11 15 30 35 段々内容も忘れてくるでしょうから、覚えている範囲であらすじ書きます。 紫は事故に巻き込まれて来たとかじゃなくて、自分の意志でブラブラ現代を歩いていたところを酔っ払いに絡まれて、そこを主人公に助けてもらうという、紫にしかできない現代入り法だった。 そのまま何となく主人公の職場の飲み会に同伴して、なんとなく家に転がり込んで……。どういう人なのか、帰る場所はあるのか、主人公は知らないまま。 どうしてこういう同伴が成り立っているのか、紫はどういう心境なのか、主人公も、読者も、多分投稿者もわからない。 最終回は確か、そろそろ出なきゃ、行かなきゃいけないところがあるからと紫が切り出してきて、最後の日を、主人公は仕事休んでまでして、一緒に過ごすことを決める。 お別れはそんなに涙たっぷり、みたいな空気ではなかったと思う。ただ、また1日が終わったみたいな、そんな感じだったような。でももう忘れちゃってるな。 -- (名無しさん) 2024-03-11 15 48 32 見たことないけど酔っぱらいに絡まれる賢者サマて… 薄いスケベな本じゃあるまいし、鬼舞辻無惨対チンピラみたいなオチしか想像掴んなぁ -- (名無しさん) 2024-03-11 23 32 45 他のログみた感じ、ここの紫って基本ムーブはポンコツだったのかね -- (名無しさん) 2024-03-11 23 34 15
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目次 1.ストレス・マネジメント 2.都市型生活の問題 3.運動不足の解消 4.新しき提案 5.未来人の健康管理 (一九八八年七月四日の霊示) 1.ストレス・マネジメント エドガー・ケイシーです。今日もまた、こうして私の霊示を送れることをとても幸いに思います。さて、先日は「治病の原理」について、お話をいたしました。そのなかでいくつかの病気についての対策ということを立てましたが、病気そのものの数はそれよりもはるかに多いので、あれだけではとてもすべてはカバーできません。そこで私はこの第3章において、主として病気の予防、予防医学的見地に立った現代人の健康法について考えてみたいと思います。ついてはまず最初に、「ストレス・マネージメント」ということで少しお話をしてみましょう。 何と言っても現代という時代を医学的に眺めて見た時に、いちばんたいせつな点、あるいはいちばん注意を要する点は何かと言えば、ストレスの多い社会となっているということです。このストレスの管理ができない場合は、もう人間の生命は長くないと言ってもいいかもしれません。 このストレスには、個人レベルのストレスと社会レベルのストレスとの両者があります。個人レベルのストレスは、もちろん個人としての健康を害し、病気になるひとつのきっかけとなるわけですが、社会レベルのストレスというのは何になるかと言うと、これがやはり戦争というような大きなかたちになったりしてゆくのです。 現代という時代を見ると、この個人レベルのストレスで病気が流行(はや)り、社会レベルのストレスが多いために、また戦争の予兆があちらにもこちらにも出てきているようです。それは、平和時においては人びとの闘争本能のようなものが抑圧され、それがどこかになんらかの形をとって出てこようとしているというようにも見えます。 このストレス・マネージメントの話において、私はまず個人のストレス・マネージメントの領域についてお話をしておきたいと思います。なぜ、現代はそれほどストレスが多いのか。その理由は主として三つに絞られると私は考えています。 第一は、これは情報量の増大ということです。現代のような情報化社会においては、なかなか単調な日々を送らせてもらえないものです。これがひとつの原因になっているようです。毎日毎日、新聞、ラジオ、テレビその他さまざまなマスメディアによって新しい情報が絶えず流され続けており、それを吸収しないと時代についていけなくなってしまうのです。過去、人類が享受していたような、おだやかなのんびりとした平坦な日々というものを味わえないようになっているのです。朝、日が昇れば起き、夕方、日が落ちるころには夕食を食べ、家族団欒(だんらん)をして、そしてすぐ眠りに入るというような、そうした平穏な、おだやかに流れていくような生活が忘れ去られ、複雑でせわしない生活がよしとされる時代となったのです。 考えてみれば、これは幸福感の質が変わってきたということでもあろうかと思います。原始の時代と言いますか、遙かなる昔の、父親が狩猟に出て、そして獲物を捕って帰ってくる、妻が料理の準備をして夫の帰りを待ち、子供たちも夕食を待っているという生活。獲物が多ければ喜び、そして料理にも熱が入り、狩りの話をみんなでして、そして家族みんなが楽しそうに喜んでいる姿、そのようにして得ていた幸福感が果たして現代人のものと比べてみて、どれほど見劣りがすると言えましょうか。 幸福というのは、決して複雑な世界のなかだけにあるものではないのです。単純な世界の、素朴な喜びのなかにも深い幸福感というものはありますし、しかもそれは幸福の基本型であるとも思うのです。 そのような原始時代の人にとってみれば、たとえば学校のテストで何点の成績を取ったとか、あるいはボーナスがいくら増えたとかいうような議論は、たとえ聞いたとしてもチンプンカンプンでありましょう。彼らはお金というものに対する感覚さえないでしょう。また社会的肩書き、たとえば重役になった、あるいは社長になったといってもまったくピンとこないでしょう。彼らは現に自分たちに役に立つものが手に入った時にただ素直に喜ぶ、そうした喜びを幸福としていたと思うのです。 こうしてみると、現代の複雑な、情報過多のストレスというのは結局多くの人間が、複数の価値観を持ち始めているということ、異質な価値観というものが発生しているということが、その原因の一つであるのではないのかと考えられるということです。 また、このような情報の氾濫から始まって、次は交通のラッシュの問題がありましょう。父通機関がどうしても混み合い、そして勤労意欲が減退してきているということです。これはどの国の主要都市においても頭を悩ましている問題であると思います。 それからストレスの発生原因の三番目のものとしては、これは家庭生活の良好な維持ということがなかなかできなくなっているという、そのような点に求められるでしょう。現代人は、家族生活を営むということが下手になってきたのです。昔であるならば、離婚をするというようなことは、それほど多くあることではなかったのですが、現代人では離婚というのは急増してきています。これはいったい何か問題なのでしょうか。やはりここにも大きな弊害が忍び寄っているように思うのです。 それは何かというと、結局のところ、仕事上のストレスが家庭のなかに相当持ち込まれているということが言えるかもしれません。妻に夫の仕事の内容がわからないということ、これもひとつのストレスなのです。狩猟時代には夫の仕事は妻にとって明瞭なものでした。そして、夫がどればどの仕事をしたのだろうかということは、捕ってきた獲物をみればだいたいわかったものです。ところが現代の管理社会のなかにおいては、妻は夫が何をして帰ってくるのかがわからないのです。つまり、その長時間の間、夫が何をして働いているのかがわからないのです。そして、夫の自分への愛の量を帰ってくる時刻で計ってみたり、サービスの量で計ってみたりする。このようになると、夫のほうは会社で疲れて帰ってきて、そのうえ家庭サービスをさせられるというようなことで、ますます気がめいってくることがあります。このように、お互いが噛み合わなくなっているわけです。これも結局、妻が夫の仕事の内容をほとんどわからないということに、その原因があるのかもしれません。 このような三つのストレスの原因があって、現代は多くの病気が発生しているようです。そしてその根本にあるのは、やはり人間には、その個人個人独自の自分にあったライフスタイルというものがあるのであり、このライフスタイルを一律に規定しようとするところに実はかなりの無理があるようです。また世間の風潮によって、現在偏差値志向などというものがあるようです。けれども、みんなが立派だと思う方向、あるいはそれが社会における出世であると思う方向へと全員が流れていこう流れていこうとしているようですが、これに対してはもう少し、自分は自分という独立独歩の考え方を確立していってもよいのではないかと思うのです。他人の生き方に流されない人生を考えるということです。 またこれは、国単位でも同じようなことが言えるのです。何が言えるかというと、国単位のストレスというのは、民族間の優劣、国と国との間の優劣を競い合い、このようなものでもって追いつけ追い越せと競争をし、そして先方の国に負けるのではないかと思うと、やたら軍備を増強してみたり威嚇してみたり、こうした原始的な精神性がまだまだ残っていて、そこから発生しているのです。これに対しては、私は国家というものをひとつの人間としてみたてたときに、その国家単位の考え方、行動パターンといった一人の人間としての国の文化レベルを早く高いものにしたいものだと考えます。それはまるで原始人たち、しかもそれは原始人のなかでも特に野蛮な人たちがお互いに覇を競っているような、人食い人種の世界、そうしたものを国家単位で演じているかのようにも見えるのです。その根本の原因は、結局、言葉の違う種族である他国のことを信用できないということが、その根本原因になっていると思えるのです。 こうしてみると、現在海外旅行ばやりのようですが、多くの人がもっと早い時期から海外というものをいろいろと経験してみるということもひとつであろうと思います。修学旅行というようなもので日本国内のいろんなところへ若い生徒たちが行っているようですが、できるならば子供の時代に海外体験というものを短期間でもよいから積ましてやりたいものです。夏休みとして一か月も休みを作るのならば、そういった時に宿題ばかりやらさないで、一か月ぐらい他の国にも見学のために訪問させてみるのです。たとえば、アフリカとか、インドであるとか、中国、ヨーロッパといった国において、そこの子供たちをどこかの学校どうしが交換して面倒をみるような制度をつくり、一か月ぐらいそこに滞在していろいろと他の国の風土を学んでみるということ、そのようなことを考えてみてもよいのではないでしょうか。今、国民性ということを創ることを重視していますが、それ以外に早くから他の民族の、他の国の人たちの生活を知るということ、そしてみんな友達なんだということを知るということがとてもたいせつなことであろうと思います。 2.都市型生活の問題 さて、このストレス・マネジメントの話をすると、結局いびつな部分として出てくることは、都市型生活ということになるのかもしれません。都市というものはやはりストレスを生みやすいものなのです。しかしその反面、都市はまた繁栄のみなもとであることも事実であり、文化の源泉であることも事実です。田舎においてはなかなか文化というものは栄えないものです。都市にはやはり文化が栄えるのです。そこには盛り場もあり、若者たちもたくさん集まりいろいろな文化が栄えるものです。ただそのようにしていろんな文化が栄える反面、そのストレス管理がむすかしいのもまた事実です。都市型生活には、この両面があるように思います。 さて今、霊となった私の眼で見て、この都市型生活の問題を考えてみたいと思います。そうすると、ここにおいて結局何が問題であるかというと、経済のシステムの中において個々の企業がバラバラに自社の発展だけを願ってその活動を行なってきたということです。そしてあちこちに工場を造り、本社や支店をつくり活動してきましたが、結局そうした個々の私企業の自由の追求と、国家単位、あるいは地域単位で見た生活様式、あるいは交通様式、こうしたものとの間にバランスがとれなくなってきているということが言えるのではないかと思うのです。 私は、もはや大都市においては単なる個人、あるいは私企業の自由の追求だけではやっていけないのではないかと思います。こうしたところにおいてストレス・マネージメントをなしていくためには、そのように、お金があれば自由勝手に土地を買い、ビルを建てるという、そうした自由はもうあまり許されないのではないのかと、そのように思います。もちろん地方において土地が余っているようなところであるならば、好きなように建てたいものは建てたらよいと思うのですが、大都市圏においてはもうそれほど大きな自由はないと考えねばならない。やはりもうある程度の行政指導の枠のなかで、そういった企業活動などもなされていく必要があるのではないかと思います。 そうすると、都市には不自由性が発生しますので、ますます地方へと企業も人も流れて行くことが多くなってちょうどよくなっていくのではないのか。田舎では自由があるということになっていけば、そこでいろんな企業が出来たり、個人の生活が生まれてくることもあるのではないのか。そのように私は思います。このように、都市のなかではある程度、共産主義社会ではありませんが、もうかなり地域の行政府主導型、あるいは国家主導型でやっていく以外方法がないのではないでしょうか。一つの体制のなかに二つの考えがあるのはおかしいかもしれませんが、私はそれでよいと思うのです。人口何百万人か以上の大都市においては、もう個人個人の自由はある程度制限され、今以上にもっとその街が住みよいものとなるために公的な企画が入るべきであると、そのように考えます。 三百万なら三百万、五百万なら五百万の住人がなかよく住むことができ、かつ健康的に住むことができるためには、どれだけの緑が必要であって、どれだけの交通網の充実が必要であるのか、どの辺にベッドタウンが必要であるのか。官庁や、あるいは工場群、企業群がいったいどの辺にあるのがいいのか。こうしたことをもう少し公共性を持った観点から、やはり整理するべきだと思います。 したがって、日本の国なども国有地というものがあるのでしょうが、こうした人口三百万なら三百万人以上の都市の土地はすべて公有という形を明瞭にして、国家所有型にしてしまえばよいのです。そしてそのなかは、やはり国家のある程度のプランにもとづいて動かせるようにしていくのがよいと思います。そうすると、自由を求めて地方へ田舎へと企業も人も出て行きますので、これは人口の分散をうながしますし、また、都市に残っている人にとっても、そこは非常に計画性がある都市になっているのでとても住みごこちがよくなっていくと思います。こういう思い切った工夫をしないかぎり、なかなか現在の都市型生活を切り替えることはできないと思います。 この都市型生活を切り替えるのは、都市を要するにある意味で逆に不自由にしていくことです。都市をもう少し不自由にするということ。人間として最低限の生活を享受できるようにするためには、それなりにやはり計画型に切り替えていくことが必要です。そしてそれが嫌なものは地方へ、あるいは近郊へと移っていただくことです。このようにしていったほうがよいと思います。こうした人口過密のところで、それぞれの人聞が自由な活動をしようとするからこそ、いろんな問題が起きてくるのです。そうしたことを、私は提案しておきたいと思います。 3.運動不足の解消 さて、第三に、「運動不足の解消」について話をしておきます。これも主として都市型生活と関係があるといってもよいでしょう。何といっても一日のうちの大部分の時間を会社でしばられているというのが、ほとんどのケースであろうと思います。朝の八時、九時から出勤して夜の八時、九時、あるいは夜中まで、こうした勤務が続いていると思います。そこで、このような中で、どのようにして運動量を確保するかということがたいせつになります。もちろん週末にゴルフなどやっている人もいるでしょう。それはそれでよいかもしれませんが、それだけでは根本的な解決にはなりません。 私は運動というものは、あるいはスポーツというものは週に三回はしなければ意味がないと思っています。できれば毎日少しずつでもやるほうがいいし、毎日できないとするならば、できれば週に三回、各一時間は取っていただきたいものです。そのような願いを持っています。けれども現代のように朝早くから、夜遅くまで働いているようなサラリーマンの生活であっては、運動する場はもうほとんどないといってよいというのが現実でありましょう。 ここで私は、一つの考え方をまた提案したいと思うのです。現在多くの企業ではどうやって経費を捻出し、そして税金から逃れられるかということで一生懸命工夫をしているようです。利益を上げればその分担金を取られるので、どうやって経費を作るかということで熱心になっているようですが、ひとつこれも制度的に見直す必要があると思うのです。 たとえば会社のビルを造るときには、必ず運動施設をそのなかに造るというようなことについて一定の義務づけをする、あるいは方向づけをするという必要があると思うのです。特に大きなビルになった場合、小さな二階建て三階建てではそれはむずかしいかもしれませんが、何十階建てのようなビルを造る場合には、必ずそのビルのなかにスポーツ施設を設けるということです。たとえばプールであるとか、アスレチックスであるとか、そうしたものを必ず設けるということ、これを義務づけるのです。 そして、そのために要した費用についてはもちろん必要経費として控除をする、そのように考えていけばよいと思います。したがって、税全面で何らかの優遇をする必要があると思います。そうしたスポーツ施設などに力を注いだ場合には、ある程度税全面での優遇が得られるようにすれば、各企業は競ってでもスポーツ施設などを社内に造るようになるでしょう。 そして、会社のなかには残業が多いところもあるでしょうが、一日のうち勤務時間が八時間を越え、あるいは九時間を越え、十時間以上に達する場合には、その間の三十分なり一時間、そうしたスポーツ施設で汗を流す時間を社員に対し許容する、社内規則として許容する、そのような方法をとるのがよいように思います。 これについては、今後近未来社会におけるこれからの各企業は、はっきりと割り切って必要な費用だと思わねばならないと思います。そうでなければ、生物存在としての人間がもうだんだん生きていけなくなるのです。奇形児となっていくのです。人間の筋肉というのは、本来もっともっと強いものとして出来ており、それは狩猟にも使えるようになっているのです。ところが現代のサラリーマンたちを例えば狩りに連れ出したとして、いったい何人の人が獲物をしとめることができるでしょうか。その足、その眼、その手でいったい何人の人が獲物をしとめることができるでしょうか。それだけ現代人をその体格あるいは肉体について見た場合、退化してきているのです。これはやはりなんらかの点で改善しなければならないと思います。書類仕事だけではそうした体力を要求されることがないのです。 したがって、大企業、一定数以上の企業、たとえば従業員の人数が千人以上の企業であるならば、社内に何らかのそうしたスポーツ施設を設けるべきです。そしてそのなかで一定の時間自由に遊べるようにするべきです。このようなことをできれば指導したいと思います。そうでなければ今後ブロイラーのような都市型生活者が増えて、しだいしだいに体の具合の悪い人が増えてくるでしょう。また、そのサラリーマンの家族でも社宅などに住んでいる方も多いでしょうから、そうしたところでも運動設備をできるだけ準備していくということがたいせつです。それはもう各個人、あるいは私的企業の自由な判断にまかすことではなく、もうそうした福利厚生の部分についての公的な指導が必要な時期に来ていると思うのです。 4.新しき提案 さて、そうした都市型生活を中心として話をしてきました。またその提案のひとつとして、各企業に、そうしたスポーツ設備を設けるといった話もいたしました。さて、それ以外に、私の考える新しき提案があります。 それは、都市の造形といいますか、形式、あるいは計画に関することなのですが、できればこれから都市計画をするときには、都市の中央部分を憩いの場としていくことがたいせつだと思います。ドーナツ型の都市をなるべく造るようにしたほうがよいのです。これは、人間の精神構造、心理構造からいってもそのようになっているのです。ドーナツ型の都市の中央の部分に、くつろぎの場、憩いの場を造ってやることです。 そうすると、多くの仕事で疲れた人たちが、安らぎを求めて真ん中へ真ん中へと寄ってくるようになります。そうすると、いろんな仕事をしている人たち、いろんな生活をしている人たちが、その中央部分に集まってくることになるのです。その中央部分がいったい何になるかというと、それがすなわち都市の広場となるのです。広場となって、そこでいろいろな行事があったり、催し物が開かれたり、そうしたことにより文化の交流も盛んになり、人びとの語らいも進むのです。やはりどうしてもその形が四角い都市構造だと、そういうことができにくくなっていくのです。できれば新しい都市の場合には、ドーナツ型の都市を造っていただきたいと思います。そして、その真ん中には自由な空間、そういうものを必ず造っていただきたいのです。これは、人間の心を非常に和らげる効果があるのです。 もうひとつは、現在リゾート地の開発ということが非常に流行っているようですが、このリゾートについての考え方が今後必要であると思います。日本のリゾートにおける問題は、一定の時期に大量の人口が集まり過ぎるというところにその問題があるのです。海水浴客にしても、結局夏場一か月、二か月の間に集中して大量の人が出るのです。正月もまた大量の人が動き、お盆も大量の人が移動するのです。ゴールデン・ウィークもまた同じです。このようにして大量の人が一時期に集中するということが、リゾート地への人びとの移動を妨げているように思います。 したがって、これについては、やはり考え直す必要があるということです。そのリゾート地における人の分散化をはかるためには、たとえば毎年交代で業種なら業種によって、その夏休みを取る時期を変えるようにしていくという方法があるのです。あるいは地域によって、申し合わせによってお盆ならお盆の時期をずらしていくという必要があるのではないかと、このように思います。 また、それ以外の問題としては、単身赴任というような現象が起きていて、この単身赴任による男性の独り生活がふえており、そして週末に自宅に帰ってくるというようなこうした決まったパターンが、しだいに出来つつあるようです。もちろん海外への単身赴任ということもあるでしょう。これもまた、家庭を破壊する原因として非常に大きく影響しているように思います。 では、この単身赴任の問題をどのように考えればよいのか。これは止むを得ないことなのかどうか。もちろんこの単身赴任の問題も決して一概に悪いことだとは言えず、企業のなかに生きる者にとっては、それだけのキャリアを積むという意味合いがあることも事実であり、また一か所に定住するのではなくて、いろんな場所における生活を経験できるという意味でそのメリットはあるでしょう。 さて、後は家庭の問題です。家庭の問題としていちばん大きいのが、やはり教育でありましょう。教育のところがひっかかり、単身赴任が生じていることが多いと思います。ではその教育の問題、子供の教育の問題、学校の問題をどう考えるかということです。これについては、結局価値観の問題がひとつにはあげられるのではないでしょうか。つまり、スパルタ教育によってこそ学問が身につき、そして人間の成功への道が開けるのであると、このように思うのが多くの親たちの主たる考え方であるために、それほど素質のない子供を一生懸命きびしく教育しているというのが現状であろうと思います。 ただ、私の実在界に還ってからの考え方を述べてみますと、人間はそうした知識だけでもって成功していくことは、本当は不可能であるといってもよいと思うのです。結局、人間が成功していく要因は、実はその人の霊性なのです。その人の霊性がいったいどのようなものであるかによって、その人の成功、不成功が決まっていくのです。したがって、学問的なるもの、学校で学ぶような知識だけでもって、そのようなものが左右されると思ってはいけないのです。あくまでもその人間の霊性の開発ということがたいせつなのです。 したがって、教育の改革の原点を霊性の開発の方にもってくるということが、どうしても必要であるように思います。現在においては、霊性開発ということがまったく教育において行なわれていないのです。この霊性の開発という観点から教育というものを見直したときに、これは決して大都会の受験校が霊性の開発にとってふさわしいとは言えない、ということがわかるのです。この霊性の開発ということを主眼に置くのならば、それにはむしろ田舎のほうがよいかもしれないのです。地方のほうがよいかもしれないのです。このような観点から教育というものを見直していくとするならば、この都市教育と地方教育の格差というものについて、今までとはまったく違った別の次元から解決をつけていく必要があると思います。 また、学校においても、現在のように学問的な知識だけで能力を選別する方式だけをよしとしてはならないのであり、これからはそうした霊性の高い子弟を教育するようなシステムが必要となってくるでありましょう。霊的にある程度目覚めている人たちを集めて教育するような学校、そうしたものが必要であるように私は思います。 5.未来人の健康管理 さて、最後に、「未来人の健康管理」ということについて語ってみたいと思います。これは、将来起きるべきことを、ここにおいて先取りして話をしてみたいと思うのです。 そうすると、未来人の健康管理とは、ある意味で職業選択の自由とも関連しているように思われるのです。一生のうちで働く期間を四十年なら四十年とすると、この四十年間をまったく同じ仕事をして費やすというのもひとつではありますが、それだけではあまりにももったいないのではないかという考え方があります。したがって、この四十年のうちの何年かは本人の自由によって、もといた仕事場に帰ってこれるという前提つきで他の仕事に出ることができる、このようなことも必要なのではないでしょうか。また、ある程度、健康的な職業につくということも経験ができるという、こうしたことも大事なのではないかと、私はそのように思うのです。 今の職業選択における一番の問題点は、他のものにいったん職業がえをすると、もうもとに戻れなくなるということなのです。たとえば管理社会の中に生きていて、そこにおいてもう行き詰まりを感じている人は、保養も兼ねて一年ないし二年まったく違うところで働いてみるのです。たとえば、観光産業のなかで働いてみる。あるいは、農業、漁業のような仕事もしてみる。このようになっておれば、非常に面白い人生が送れると思います。農業というものも今のような個人レベルでの仕事だけではなくて、ある程度、企業が組織的に大規模に農業をやっていくべきだと私は思っていますが、そうしたところに雇用の造出をしておけば、一生のうちである程度いろんな職業を経験できるようになります。そしてもとの所にも戻れるというような、そうした計画が可能であろうと思います。そうした需要供給のバランスを保つために、また新たな仕事もできてくるであろうと思うのです。 このように、職業の単調化を避けて他のものをも経験できるような、そうした仕組みにしていくことがてきれば、結局自分の健康を害するような生活を今自分がしていると思えば、それなりに切り替えができるようになっていくと思います。現在たとえば証券マンであるとか、商社マンであるとか、そうした忙しい仕事についている人たちは、あまりそのなかに長く居続けるととても強いストレスを蓄積していくことになっていきます。こうした時に一つの会社だけというのではなく、多数異業種間で提携し合い人材の異動ということを計画し、相互に健康管理をするとよいと思います。またその反対に、のんびりとした仕事をしている人にとっては、むしろもっと刺激的な環境も必要となってくるでありましょう。 このように、一つの仕事ばかりを長期間ずっと続けてすることに対して、ある程度、肉体的な管理、精神の健康ということを考えて、多少そうした仕事のローテーション、社内ローテーションだけではなく、社外ローテーションをも組み合わせてゆくということです。そして海が好きな人や山が好きな人など、いろいろあるでしょうから、そうしたものをも調整していくこともできるでしょう。あるいは、一生のうち一時期は郷里のほうでも仕事ができるというような、そうした仕組みを創っていくことが健康の管理にもなるのだと思います。 また、未来人ということに限って特に言ってみるとするならば、今後発達してくるものはやはり「予防医学」でありましょう、どのように医学というものを予防的見地から行なっていくか、そして病気を事前に抑えるか、ということが、今後もっと合理的に考えられるようになると思います。 おそらくは、ある人を人間ドックのような装置に入れて分析してみると、将来どういう病気にかかる可能性があるか、そうしたものが瞬時に出てくるようになるでしょう。そしてそれを避けるためには、どういう運動が必要か、どのような健康管理が必要か、こうしたものがはっきりと数値としてコンピューターによって出されるような、そうした時代がもうそこまで来ていると思います。これはかなり碓実に予想できるものであると思います、そうした健康管理、これが始まっていくでしょう。 もうひとつ未来大の健康管理において、言い落としてはならないことは、それは、食事の管理ということになります。この食事の問題も、現在かなり個人個人のレベルに任されている点がありますが、現代およびこれからの未来人にとっては、この食事の管理ということが非常に大きな課題となります。おそらくは今後、たとえばプロの調理人とか栄養士などの能力とはまた別に、食事管理能力ということ、健康維持のための食事管理能力というようなものが、ひとつの国家資格のようなものになっていくでしょう。そしてその資格が一級であるとか二級であるとか、そうしたものも今後出来てくるでしょう。その免許・資格を奥さんが取るのが望ましい、と言われるような、そうした時代になると思います。 以上で「現代人の健康法」の話を終えたいと思います。
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性分業下での男の優位 とすると[男の女に対する]優位は、あるとして、どこにあるのか。一つに、生活のための財の供給を独占することによって女を従属させることができる。一つに、男が生産する側にいて、女が消費させる側にいることで、価値的な優位に立つ。一つが物質的な水準における優位であるとすれば、第二のものは価値の水準における優位である。(11) 生産の優位→男の優位 この社会では勤労に価値が付与され、生産の優位がある。生産によって取得されたものが正当に所有されるものとなる。そのような社会では、誰かが働かなくてよいことは、誰かがそれが可能であるほど働いていること示し[原文ママ]、肯定的な価値が付与される。そしてその価値を担うのは男である。そこに「男の甲斐性」が示される。(12) 稼ぐことのできない男の不利さ 男が、自分一人が稼ぎ手であるなら、またそのことがその男の価値を示すものだとされるなら、とくに自分の雇用が安定しない場合、その男は自らが稼ぎ手であることが苦痛であるかもしれない。実際稼ぎ手であることができず、その家庭での地位を失う。(14)
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マハーバーラタ日本語訳 英文から日本語に起こしました。 登場人物等の関連リンクは全然置けていないので、今後充実させていく予定です。 第01巻 アーディ パルヴァ 始まりの巻(物語の始まり) 第02巻 サヴァ パルヴァ 集会の巻(賭博と亀裂) 第03巻 ヴァナ パルヴァ 森林の巻(5王子達の森での12年の隠遁) 第04巻 ヴィラータ パルヴァ ヴィラータ王の巻(5王子達のマツヤ国隠遁) 第05巻 ウディヨーガ パルヴァ 努力の巻(クルクシェートラの戦い開戦前夜) 第06巻 ビーシュマ パルヴァ ビーシュマの巻(開戦後 1日目〜10日目) 第07巻 ドローナ パルヴァ ドローナの巻(開戦後11日目〜15日目) 第08巻 カルナ パルヴァ カルナの巻(開戦後16日目〜17日目) 第09巻 シャリヤ パルヴァ シャリヤの巻(開戦後18日目の戦い) 第10巻 サウプティカ パルヴァ 夜襲の巻(最後の夜襲と戦争終結) 第11巻 スリ パルヴァ 女性達の巻(戦後に残された者たちの嘆き) 第12巻 サンティ パルヴァ 平和の巻(5王子長兄の即位) 第13巻 アヌササナ パルヴァ 説法の巻(長老ビーシュマの教え) 第14巻 アスワメーダ パルヴァ 馬犠牲祭の巻(5王子統治の進展) 第15巻 アスラヴァシカ パルヴァ 隠棲の巻(王と后の隠棲) 第16巻 マウサラ パルヴァ 棍棒合戦の巻(ヤドゥ族の乱) 第17巻 マハプラスサニカ パルヴァ 旅立ちの巻(5王子ヒマラヤへ旅立つ) 第18巻 スヴァルガロハニカ パルヴァ 天界の巻(5王子の昇天)
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2007年05月31日(木) 13時39分-穂永秋琴 君子は怪力乱神を語らない。(『論語』述而) 私は平素趣味が少なく、酒や歌など、大勢で楽しむことを良しとするものは、一つとしてすることができない。文章のほかに娯楽はないのだ。そこで心を遊ばせ耳を驚かせる事件を広く集め、妄言虚聞も記録して保存した。(袁牧『子不語』序) 1 路上画虎 各務原の仲原健作は、美術学校の学生である。虎の絵を描くことを好み、常々友人に「俺が描いた虎はみな画布から飛び出て人を食うのだ」と言っていた。ある日、仲間たちとの飲み会の帰りに、泥酔して高速道路の柱に虎の絵を描いた。虎は飛び出てこなかった。仲間たちがからかうと、彼は言った。 「これは虎、俺は大トラ。こいつは俺を恐れて出てこないのだ」 仲間たちは笑った。 のちに岡崎の会社員宮村孝義がここを通った。彼は虎の絵を見てつぶやいた。 「俺もこの虎のように力があったならなあ。所詮俺は会社にこき使われる馬車馬にすぎんのさ」 すると、すぐさま虎は壁から飛び出してきて彼を噛み殺し、駆け去っていった。 稲稲子が評して言う、この話は豪放を愛し諦観を拒絶するものである。小心の者が、他人のの悪戯の餌食となって終わりを迎えること、いかに多いことであろうか。 2 蜘蛛水管 海津の中竹小学校の校庭には、すでに使われなくなった水道管が放置してある。水が通らなくなってから久しく、乾いたまま顧みられることがなかった。 ある日、ここに通う小学五年生の高原敏文が、放課後友人たちとこの水道管のそばで遊び、戯れにこの蛇口をひねったところ、水管から小さな赤い蜘蛛が大量に這い出し、排水管へ流れ込むように押し寄せていった。ぞっとして蛇口を閉じると、蜘蛛たちは出てこなくなった。 この話は、筆者の友人であり、その場に居合わせた原村明則から、筆者が親しく聞いたものである。 稲稲子が評して言う、この話は水道その他行政によって提供されているサービスに、いかに危険が潜んでいるか、そして我々がいかにそれに気付いていないかを諷したものである。 3 名射手 多治見の宗像次郎は、警官である。従来、怠惰の性質で、二十五年にわたって勤めたが、巡査長までしか昇進しなかった。しかし、拳銃の腕前は抜群で、しらみの心臓をあやまたず撃ち抜くことができた。 宗像が警察に勤めてちょうど二十六年目になる日、強盗が刃物を持って銀行に押し入る事件があった。早期に通報されたため、強盗はまわりを囲まれて脱出不可能になった。そこで強盗は女性職員を人質にして立て篭もった。宗像が拳銃を持って銀行の中に入ると、強盗は職員の首に刃物を押し当て、言った。 「銃を捨てろ!」 宗像は拳銃を捨てるかわりに六発の弾丸を抜き、地面にばらまいた。強盗はふっと息を緩めた。宗像はすぐさま銃を構え直し、引き金をひいた。撃鉄が空の弾倉を打つ音がした。強盗は額から血を流して死んだ。 稲稲子が評して言う、異才の持ち主はどこにでもいるものである。だがその才が発揮される場がなければ、誰がその才能を知ることができよう。ああ! 4 イチイ 中津川の実村数雄、その父の実村三多六は有徳の僧であった。数雄は豪放磊落で、酒と女と音楽をこよなく愛した。寺の境内には一本のイチイの大樹があり、毎年鮮やかな実をつけた。数雄はこの木を好み、毎晩、酒とギターを持ってイチイの木陰に入り、酒を根元にかけてから、 「やあ、姉さん。今日もお付き合いください」 と言って、おもむろにギターを弾き始めるのだった。 昭和の末年、六月、数雄は赤い服の美女を夢見た。彼女は言った。 「日ごろ美酒と佳音を賜り、感謝しております。実は土地神がわたくしに淫らな思いを抱き、しつこく言い寄ってきますので、死を装って逃れ、この地を去ることにいたしました。しかしあなたの友誼に報いないわけにはいきません。私の足元をお探しください。そこにささやかな贈り物を残しますから」 数雄はこれがあのイチイであると悟り、言った。 「貴女は私の知音ですから、この地を去られるとは名残惜しいことです。どこかでまたお会いできるでしょうか」 赤い服の女は答えた。 「火の中で別れます。水の中でお会いしましょう」 数雄はさらに問おうとしたが、そこで目が覚めた。深夜であった。豪雨が降りしきり、風声と雷鳴が聞こえた。 翌朝、落雷があってイチイの木が焼失したことが分かった。数雄は昨晩の夢を思い出し、炭化したイチイの根元を掘り返してみた。根元には木箱が埋まっていて、中には仏像が入っていた。鑑定に出してみたところ、それは円空仏であった。 やがて数雄は父に従って僧籍に入ったが、俗心収まり難く、たびたび寺を抜け出しては放蕩にふけった。そこで三多六は数雄に諸国行脚の修行を命じた。 ある日、数雄が木曽の山中を旅していたところ、濃霧のために道を誤り、川に転落した。数雄は泳ぎが得意でなかった上、川は深く流れは速かったため、あわや溺れそうになったが、上流のほうから赤い服の女が泳いできて岸まで手を引いてくれたので、九死に一生を得た。数雄が一息ついて礼を言おうとしたところ、赤い服の女は忽然として姿を消していた。数雄はまわりを見わたし、一本のイチイの木が、鮮やかな実をつけているのを見つけた。 稲稲子が評して言う。神鬼と人間の道は隔たっているという。実村の如く、神鬼のうちに知音をえた人間はまことに稀であると言えよう。 5 逆川南流 羽島市の中央に川があり、その名を逆川という。長良川を出て木曽川に注ぐ。他の川と異なり、南から北へ流れるので、逆川と呼ぶのである。この川は戦後の高度成長期、多量の工業排水が流れ込み汚濁が進んだが、現在では環境保全の声が高まり、水質も相当な改善を見せている。 逆川の水質改善に尽力した者に片山繁樹という男がいた。平素より奇行を好み、しばしば逆立ちして町を練り歩いた。片山は平成十四年九月に死んだ。彼が死んだ日、逆川は北から南に流れた。 稲稲子が評して言う、この話もまた「イチイ」と主題を同じくしている。主題とはすなわち「知己」ということである。知己はどうして人間のみに限る必要があるのか。川の怪事は片山の死を悼むものでなくてなんであろう。 6 白馬非馬 従来、木曽は馬の産地であって、岐阜や長野では馬を祀る神社も数多い。また馬の霊異譚も極めて多いのである。 中村上総というのは有名な馬主で、何頭もの名馬を輩出してきた。中村はある秋、これまでにもまして優れた馬を得、見事に調教して、笠松競馬場に出走させようとした。いざ競馬が始まろうという日、中村が馬に、 「さあいよいよ本番だ。よろしく頼むぞ」 と言うと、馬ははっきりと、 「嫌だ」 と言った。中村は大いに驚き、即座に持馬をみな木曽山麓に放して馬主を廃業した。 またある時、笠松競馬で白馬が一位となった。二位になったのは黒馬で、騎手は村山勲であった。村山は馬がこうつぶやくのを聞いた。 「白馬は馬に非ず」 調べさせてみると、優勝した白馬はシマウマの白子であった。 稲稲子が評して言う、この話は真実あったことと見るにはさすがに眉唾ものであるが、それに近いことはあっても不思議ではない。馬の聡明を伝える話は、このほかにも極めて数多いのだから。 7 老女侠 関ヶ原の荻原千恵は駄菓子屋の店主である。早くに夫と死別し寡婦となった。荻原は齢九十を過ぎてなお心身頑健で、百斤の鼎を持ち上げることができた。 あるとき、200キロはあろうという巨大な熊が里に下りて幾人かの人を襲ったことがあった。荻原はたまたま熊に出くわし、これを投げ飛ばした。熊は頭を割って死んだ。 ある人が言う。荻原はやくざの娘で、家業を嫌ってその家を出、山麓の小村に隠れ、密かに義侠の行いを為し、人を救ったことは十度、人を殺したことは二十度にのぼると。またある人が言う、深夜、荻原が雲に乗り、塚原卜伝や佐々木小次郎と剣を競っているのを見たと。 荻原は平成十六年に死んだ。 稲稲子が評して言う、そもそも真の侠客とは荻原の如き者を言うのであろうか。俗世に在って隠棲し、奢らず溺れず、密かに人を助けた。古はともあれ今となっては稀なことである。その荻原の死は、あらゆる義侠の死を示すものであろう。悲しいかな! 8 鮫と烏賊 安八の三田倉景子は女子高生である。非凡な才能と端麗な容姿を持っていたが、狷介な性格で、人に屈するを潔しとしなかった。水泳部に属し、泳ぎに極めて巧みであったので、密かに鮫と呼ばれていた。 夏休みのある日の夕方、彼女が一人プールに残って練習をしていると、不意に一人の少年が入ってきた。肌は白くきめ細やかで、手足は長い。 三田倉が、 「誰? 入部希望者?」 と尋ねると、彼は、 「この秋から転入予定の墨倉十郎です。前の学校では水泳部にいました。心地良さげに泳いでいらっしゃったので、ご一緒させていただきたくなりまして」 そういわれると三田倉とても満更ではなく、では一緒に泳ぎましょうとなった。墨倉はやはり泳術に長けていたので、三田倉は良い練習相手を得たと思い、その後しばしばやってきた墨倉を歓迎した。 年若い男女が長い時間ともに過ごしていれば、曖昧の情は免れがたく、夏休みも終わりに近づいたある夜、墨倉はとうとう雲雨のことに及ぼうとした。三田倉は抵抗しようとしたが、墨倉のまるい目を見て俄かに気分恍惚となり、抗おうとした手をだらりと垂らし、墨倉が自分の水着を脱がせていくのをぼんやりと眺めた。三田倉はしばらく陶然としていたが、不意に鋭い痛みが襲って、意識が鮮明に戻った。見ると、巨大な烏賊が自分の手足胴体に所構わず絡み付いていた。恐ろしいよりも怒りが勝り、三田倉は烏賊の脚を引きちぎって食べた。烏賊はあわてふためき、逃れようとしたが、三田倉は許さず、脚一本をちぎってはそのたびに食らい、とうとう烏賊を食べ尽くしてしまった。 墨倉という男子生徒は、以後二度と現れなかった。 稲稲子が評して言う、この話は猥褻な内容を含むが、淫を晦える記述ではなく、むしろ一時は惑うとも意志によって惑いを払えることを示すものだ。 9 紙魚仙 以下の話は、友人の石波祐子から聞いたものである。石波というのは女子高生だが、古書を酷愛し、東西の古典に通暁し、博覧右に出る者はないというほどの人である。 石波はある日、古い図書館の蔵書整理を頼まれ、普段は職員も立ち入らないような資料室に入った。蛍光灯のスイッチを入れ、いくつかの本を取り出しては開いて見ていると、どこからか、「まぶしい!」という声が聞こえた。しかし、部屋の中には石波を除いて誰もいない。不思議に思っていると、今度は「あわあわ、あわあわ」とうろたえる声が聞こえた。石波はふと、先ほど開いた本の頁の上で、紙魚がのたくっているのに気付いた。 石波は言った。 「人語を収得しておられるとなれば、もしや随分と長生きされ、仙となっておられるのでは」 紙魚はそういわれると、そり返って答えた。 「いかにも。書庫にて文字を食らい続けること五百年、書かれた知識はみなこの小さな頭に入っておる」 石波は、もしやこの紙魚ならば、今は失われた様々な知識を持っているのでは、と思い、いくつかの質問を試みようとした。ところが、別の部屋から職員が石波を呼んだので、 「呼ばれたので行きます。少々お待ちいただけませんか。尋ねたいこともございますから」 と言うと、紙魚は、 「よかろう。戻ってきたら何事であろうとも答えてやるぞよ」 と言った。 用事を済ませて石波がこの部屋に戻ってくると、 「た、助けてくれえ」 という悲鳴が聞こえた。石波が書物に駆け寄ると、5ミリほどの大きなダニが先ほどの紙魚を襲っていた。石波は慌ててダニを追い払ったが、紙魚はすでに死んでいた。 稲稲子が評して言う、これは知識の失われやすさについての寓話である。五百年の書物に重ねられた知識も、ちっぽけなダニによってとうとう今人に知られぬまま滅びてしまった。いったい、これほどの悲しみがほかにあるだろうか。 10 枯樹吐炎 以下は清州の真中晋作から聞いた話である。 真中の家の庭に歳月を経た銀杏の木があり、その根は大きく張って真中の家の地下にも入り込んでいた。ところがある日、台風が清州を過ぎり、この銀杏に雷が落ちた。銀杏は倒れはしなかったものの、ひどく弱って、根から枯れ始めた。そのため、根が通っている土壌は沈んで、真中の家は傾いてしまった。 真中の母は言った。 「こうなったらどうしようもないわ。惜しいとは思うけれど、切ってしまわなくては」 そこで銀杏を切るために業者を呼んだ。業者がのこぎりを銀杏の根に入れたところ、唐突に樹上から炎が噴き上がり、その高さは天にまで及んだ。炎はまもなく消えたが、業者は気味悪がり、この木を切ることを拒んだ。 そののち、この銀杏の木は生気を取り戻し、枯れることなく葉を繁らせているという。 稲稲子が評して言う、五行の思想では、木気は火気を生み、また、火気は金気を克す。おそらく、落雷により銀杏の中の木気が弱まり、かえって火気を生じたものであろう。 11 孕字 これも真中晋作から聞いた話。 一宮の曾我麻美、学生時代は文士を志したが、挫折し、紡績企業に就職した。しかし就職して六年目にあたる平成十四年の秋、理由なくして解雇を言い渡された。途方に暮れて街を彷徨し、一件の居酒屋に入って夜半過ぎまで飲んだ。曾我はそこで初老の男に会い、絶望と酔った勢いとで、男を自分の部屋に誘った。褥をともにしようとしたとき、男は曾我のベッドに枕頭に『トリストラム・シャンディ』があるのを見て、言った。 「なかなか奇特な趣味ですな」 曾我は答えた。 「学生時代は文学者や小説家を夢見たものだったわ」 すると男は、 「ならば力を貸してしんぜましょう」 といい、曾我を抱いた。 男は翌朝早くに去り、二度と戻らなかった。曾我は妊娠した。 月が満ちぬうちに、曾我は出産した。見ると、生まれたのは子供ではなく、書物だった。曾我は「ああ、あの男は作家だったのだ」と得心した。 稲稲子が評して言う、この話は文学的な体験が絶望のうちに存在することを暗喩している。文学史をひもとけば、挫折によってなんとあまたの傑作が生まれたことであろう。 12 白火取 弥富の坪井一誠は写真を趣味とし、とりわけ昆虫の撮影を好んだ。飛騨の山中に粗末な別荘を構え、しばしば訪れて昆虫を撮った。夏六月、網戸を閉め、家の外に吊るした電灯に集まる虫をぼんやり眺めやっていたところ、外に若い女が立っているのに気づいた。女は白いブラウスとスカートを身につけていた。 坪井は、 「どちらさまですか」 と声をかけた。女は応じて言った。 「道で車が故障してしまいました。一晩休ませていただけませんか」 そこで坪井が女を招きいれると、流暢な日本語からは意想外なことに、西洋人の風貌であった。そのことを尋ねると、女は言った。 「両親はアメリカ人ですが、私は生まれも育ちも日本です。欧米へ行ったことはありません」 深夜、坪井は手洗いに起きた。懐中電灯が手元に見当たらなかったため、蝋燭に火をともして部屋を出た。すると白衣の女が隣の部屋から出てふらふらと近寄ってきた。坪井が何事かと尋ねる前に、女は陶然とした様子で叫んだ。 「ああ、あなたは私の身を滅ぼしてしまわれました!」 驚く坪井に近寄ると、蝋燭の火に手を触れた。たちまち女は姿を消し、あとには焼け焦げた、白い蛾の羽のようなものが、ひらひらと廊下に落ちた。 稲稲子が評して言う、女の両親がアメリカ生まれというのは、この女がたんなる蛾が化けたものではなく、帰化種の蛾であることを暗示しているのである。帰化動物によって日本独自の環境が破壊されることは、なんとしても防がねばならない。 葡萄にはこれを出す予定。前にアップしたときのに加えて二つ話を付け加えてある。まだ一つ二つ話を追加するかも。 タイトルは清人・袁牧の伝奇小説集『子不語』から。「現代の『子不語』」と「現代っ子は語らず」をかけてみた。 12/7(すでに日付は変わっているけれども、まあ古参特権とでもしておいてくださいな)、五編追加。ちと粗製濫造気味。 Κさんから聞いた話を追加。 泡のために書き下ろした二編を追加。
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Unearthed Arcana Modern Magic 第5版の『Dungeon Master’s Guide』が2014年にリリースされたとき、第9章「ダンジョン・マスターの作業場」の2ページは多くの注目を集めた。これらのページは火器と爆発物の使用に関するルールを扱っており、古典冒険である『Expedition to the Barrier Peaks』のように、DMがD D世界に現代の武器や異質の武器を導入することを可能にしてくれる拡張ルールであった。 しかしながら、もし我々がほんのちょっとだけ現代が影響を及ぼすようなものではなく、実際に現代の時代を舞台とするキャンペーン用にD Dルールを拡張するつもりであればどうするのか? 『d20 Modernロールプレイング・ゲーム』は2002年、第3版ルールセットでそれを成し遂げた。現在、基本クラスのためのさまざまなアーキタイプ、伝統、領域、その他の選択肢といった最新版での繰り返しが行なわれており、これらは全てカスタマイゼーションの機会を提供している。そのことを考慮して、この記事では現在を舞台とするセッティングでの呪文発動キャラクターのレパートリーを拡張する新しいルールを提供する。 これらのルールは『Behind the Screens』の「My New d20 Modern Campaign」の記事を基にしており、その記事ではD D第5版用のサイドアーム、ロング・アーム、そして現代の鎧を紹介している。 ウィザード Wizard 知識こそウィザードの技の中核であり、現代の環境は大部分の魔術師が夢見ることもなかったほどの知識を提供する。 秘術の伝統:科学魔術 ウォーロック Warlock 現代のウォーロックは都市生活における目には見えない無作為性を利用し、想像だにしなかった方法でテクノロジーのエネルギーを呼び覚ます。 超自然的パトロン:機械の中の幽霊 追加の妖術 現代の武器に慣れ親しんだウォーロックはそれらの武器を通じて彼らの魔法を利用する方法を学ぶことができる。 アーケイン・ガンスリンガー クレリック Cleric 現代キャンペーンにおける多くのクレリックに関して、生活は都会の環境とそこでの奮闘に支配されている。 都市の領域 能力判定とハッキング道具 Ability Checks and Hacking Tools 現代を舞台とするキャンペーン設定における大部分のキャラクターはコンピュータの使用に良く精通しており、日常の作業(ハード・ディスク内やインターネットを検索する、電気装置の通常の機能を使うなど)のためにテクノロジーを利用する際には自動的に成功する。特に挑戦的なテクノロジーの作業(コンピュータ内に隠された情報を見つけ出す、装置内から削除された情報を復旧するなど)については、キャラクターはDMが設定した難易度に対する【知力】判定を行なう。しかしながら、一部の技術的な作業―プロテクトされたコンピュータ・システムを破る、電気装置の秘密の機能にアクセスする、あるいはそのようにデザインされている訳ではない方法で装置を使用するなど―には、特別なハッキング道具を使用する必要がある。 ハッキング道具:このキットには大部分のコンピュータ・システムと電気装置にアクセスするために必要なハードウェアとソフトウェアが含まれている。ハッキング道具への習熟によって、君はコンピュータ・システムや電気装置に接続したり、それらを使用したりするために行なうあらゆる【知力】判定に習熟ボーナスを加算できるようになる。このキットは背負い袋や道具箱の中に収まるようになっている。 新しい呪文 下記の現代用の呪文はすべてウィザード、ウォーロック、そしてソーサラーの呪文リストとして適合したものである。†が付された呪文はパラディン呪文リストにも適合する。 初級魔法(0レベル) オン/オフ 1レベル インファリブル・リレイ リモート・アクセス 2レベル アーケイン・ハッキング ディジタル・ファントム ファインド・ヴィークル† 3レベル インヴィジビリティ・トゥ・キャメラズ プロテクション・フロム・バリスティクス ヘイワイヤ 4レベル コンジュア・ノウボット システム・バックドア シンクロニシティ 5レベル コミューン・ウィズ・シティ シャットダウン アーケイン・ハッキング インヴィジビリティ・トゥ・キャメラズ インファリブル・リレイ オン/オフ コミューン・ウィズ・シティ コンジュア・ノウボット システム・バックドア シャットダウン シンクロニシティ ディジタル・ファントム ファインド・ヴィークル プロテクション・フロム・バリスティクス ヘイワイヤ リモート・アクセス ダニエル・ヘルミックはWizards of the CoastのInsiderとD D Research and Developmentスタジオの元従業員である。君はTwitterで彼の活動を追うことができ、彼のハンドルは@jabjabslicejabである。 Unearthed Arcanaトップページに戻る
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ざく切り4コマとは、いとととの「区切り4コマ」に着想を得たトウソクジン(現代4コマ作家)が提唱した表現方法。 概要 「区切り4コマ」がはじめから区切り記号によって分割された文字列を4コマと見なすのに対し、こちらは文字列をスラッシュ【/】を用いてその名の通りざく切りし強制的に4分割する。文字列をそのまま分割する手法(例:ヘリコプター→ヘ/リ/コプ/ター)と、文字や文字列を構成要素ごとに分断する手法(例:品川→口/口/口/川)との2つが主要なアプローチである。いとととから「強制4分割に通ずる試み」と評される。 文字列の分割 文字列や文字の構成要素の分断 のちにトウソクジンが「無」を4分割した作品を、桜桃が「切れ目」を4分割した作品、文字列へ無造作に十字の切れ込みを入れた作品を生み出し、ざく切り4コマの解釈は大きく拡張された。謎解きへの派生も見られる。2023年10月頃一時的に大流行し、以後はほとんど作られなくなった。 「粗製濫造」はざく切り4コマの高い拡張性と"節操のなさ"を象徴する作品。 カオスな現状はXの検索一覧をご覧下さい→【リンク】 関連 区切り4コマ 強制4分割
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正確に言えば「幻想入り」ではなく、「現代入り」である。 しかしながら、クオリティはノベル型としてかなり高い水準である。 今後の展開に期待するばかり。 -- (名無しさん) 2008-07-26 03 59 58 現代入りは幻想入りとちょい違い、なじみのある世界で 東方キャラが活躍するという幻想入りとは違った魅力があって面白い。 -- (名無しさん) 2008-09-04 07 50 02 1004番目の雨男です。話には直接関係しないと思いますけど「射命丸が現代に行った」ということを動画でネタにさせてもらったのでご報告します。 -- (雨男) 2009-03-01 21 55 54 作者の構成力が素晴らしい 小ネタや伏線も巧妙で、BGMのセンスも抜群、 ぶっちゃけほぼ全方面完璧な名作 ラストはもちろん涙腺破壊爆弾付きで -- (名無しさん) 2011-05-24 01 21 52 やはり素晴らしい作品でした。続きあるといいな♪ -- (ブワッ(;_;)) 2015-10-22 13 33 30
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現代芸術研究会GGK@wikiへようこそ! 更新内容紹介 ① wikiトップページに最下部にコメントフォームを追加しました ② トップページの画像をランダム表示設定にしました イベント紹介 Ⅰ 2013年 1/12(土) 仙台 enn 2nd にて 3大学合同ライブ 開催 Ⅱ 2013年 /() 未定 サークル紹介 現代芸術研究会とは? 現代の芸術を個々の感性で広げて行こう!というテーマを元に活動しているサークルです。 以下活動内容 音楽 バンド活動、作曲を行っています。他大学との合同ライブや地域のお祭へのバンド参加も行っています。 写真撮影 一眼レフを所持しているメンバーやデジタルカメラを使っての撮影です。活動中の写真だけでなくそれぞれの感性によって切り取られた風景画や記念撮影などもしています。 絵・絵画 スケッチブックに自分が描きたいものを描く、ライブの看板を作成、PCのペイントを利用しての個人作品など色々とあります。 合宿 サークルメンバーが普段出来ない経験を得ようと遠征する企画を立て、いわば旅行のような活動も行っています。 よくわかんないからもっと簡単な説明が必要だって? 多種多様で色々なことをしていますが、普段は暇なときはゲームやカードで遊んでいたり、音楽であればジャムやセッションをしたり 「腹減ったからマク●ナルド行こうぜ」、バカなことやってみたり、ダンスしてみたり、何気ないシーンを写真や動画を撮ってみたり・・・ 誰でも気軽に来ることが出来て絶えず笑いがある居場所、そしてなんでも出来る場所、それが「現代芸術研究会」です ※上記をクリックすると活動内容にリンクします←Check! 掲示板 ここを見て思ったこと、気づいたこと、質問、見に来たよ~ぐらいでいいので書いてってね 名前 test - T test - 2012-10-28 07 17 42 test てすとw - G 2012-10-27 19 45 35 う - 名無しさん 2012-10-27 19 46 34 あ - 名無しさん 2012-10-27 19 58 24 合計: - 今日: - 昨日: - トップページの合計: -
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なりきりネタなんでもあり板@おーぷん2ちゃんねる オリキャラなりきりスレ「現代怪異世界」 【世界観】 怪異。かつて妖怪、カミと呼ばれた者達は、時代の流れと共に鳴りを潜め、怪異の世界で静かに暮らしていた。 此処はきさらぎ駅に程近い、草木生した廃墟の並ぶ、怪異達の住まう村。 ある日、怪異の世界に穴が空き始め、きさらぎ駅も何かの拍子に人間の街と繋がってしまう。 村には度々人間が迷い込むようになり、また人の街にも怪異が蠢き始める。 ある怪異は現世で人間を襲い出し、ある人間は怪異に誑かされ怪異に染まり出す。 これは怪異たちと、怪異に出逢った人間たちの奇妙な物語。 【世界概要】 現代日本の某都市に怪異が蔓延った世界 怪異は怪異の能力を持つが、人間の世界にも怪異に対抗する術が存在する 怪異を見破れる人間はそう多くなく、警察や自治体もよほどの事がないと取り合ってくれない 怪異と契約して力を与えられたり、怪異と混じり合い半妖になった人間も存在する 人を襲う怪異も、逆に人と協力する怪異もいる 【ルール】 世界観に逢わない設定や度を越したチート能力でない限り特に制限は無し。 基本殺害は禁止。イベントなどで相談の上する場合は例外。 住人によるキャラ査定 確定描写禁止、その他基本的なマナーに反する行為の禁止。 【名前】名前 【年齢】年齢 【性別】記入自由 【正体】怪異か、人間か、それとも半妖か どのような存在か 【所在】主にどこに住んでいるか 【容姿】容姿 【能力】能力 【所持品】武器でも好物でも 【備考】その他生い立ちなど